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新田荘遺跡

国指定史跡新田荘遺跡

円福寺

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新田氏四代政義が開基したと伝えられる円福寺。境内には新田氏累代の墓と伝えられる凝灰岩でできた二十基ほどからなる石層塔・五輪塔群がほぼ完全な形で残存しています。そのうち南から二番目の五輪塔地輪部には彫りの深い薬研彫で「沙弥道義七十二逝去元亨四年(一三二四)甲子六月十一日巳時」の銘文があり「ア」の梵字が見られます。沙弥道義は義貞の祖父基氏の法名と言われています。

十二所神社

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円福寺本堂の西側、茶臼山古墳後円部墳頂近くにある十二所神社。本殿内には三十センチ弱の木彫り一木造りの十六体の神像が安置されており、うち五体の神像に正元元年(一二五九)の銘があります。創建された時代は不明ですが、付近に散在した十二の末社を本寺の円福寺に寄せ一社とした際、各寺の本尊を一ヶ所に合祀して十二所神社と称したという伝承もあります。

総持寺

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総持寺は、新田館跡の一角に建てられた寺で、別名「館の坊」とも呼ばれています。中世の二条の堀跡と掘立柱建物、井戸跡などが検出され、居住者は、その規模から新田一族の総領家クラスであることは間違いありません。新田義重の居館説、義重の孫で本宗家新田政義の失脚後一時期新田氏を代表した世良田頼氏居館説、義貞居館説などの諸説があります。また、江戸時代には真言宗の学問所として三十六ヶ所もの末寺等を有していました。

長楽寺

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新田義重の子徳川(世良田)義季を開基とし、日本臨済宗の祖栄西の高弟釈円房栄朝を開山として承久三年(一二二一)に創建された東日本最初の禅寺。創建当時は、常時五百人を超える学僧が止宿して研学修業に励んだと言われ、その中には入宋した僧も多く、日本仏教史に重要の地歩を占めました。徳川家康が関東入国後、祖先の寺として重視し、天海僧正を住職に任じ天台宗となりました。

東照宮

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長楽寺住職天海僧正の発願により、日光から長楽寺境内に勧請された神社が東照宮です。三代将軍家光が日光東照宮を改築した際、徳川氏祖先の地・世良田に旧奥社の拝殿と宝塔が移築されました。桃山時代の建築様式をよく遺す拝殿(国重文)、巣籠もりの鷹が有名な本殿(国重文)をはじめ、近世初期の文化財が豊富。境内には、長楽寺に関わる中世遺構として法照禅師月船深海塔所並びに普光庵跡や真言院井戸などがあります。

明王院

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かつての安養寺館の跡であり、安養寺殿と呼ばれた新田義貞の居館跡とも推定される明王院。現在、不動堂には二体の不動明王が納められ、その一つ、約五・五センチメートルの白金製のものは、義貞鎌倉攻めの際、山伏に化身して越後方面の新田一族に一夜にして触れまわったという「新田触不動」として知られています。また、境内には江戸時代建立のピラミッド型の極めて珍しい「千体不動尊」があります。

生品神社

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元弘三年(一三三三)五月八日、新田義貞が挙兵した地と伝えられている生品神社。弟脇屋義助をはじめ集結した新田一族はおよそ百五十騎。正面にある大鳥居の左手には挙兵の際に陣をとったとされる床几塚、神社境内の手前には旗挙げ塚、社殿前には軍旗を挙げたといわれる朽ち折れた椚のご神木が保存されています。毎年五月八日には氏子たちにより鏑矢祭が行われ、勇壮な一族の姿が再現されます。

反町館跡

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現在も堀に水をたたえ、かつての館の面影を残す反町館跡は、新田荘における中世の代表的な平城。義貞が成人後、居住したとの説があり、また市野井氏あるいは大館氏の館跡ともいわれています。現在では、照明寺の境内となり、反町薬師として毎年一月四日には大勢の人出で賑わいます。本堂裏には、義貞の逸話を伝える「鳴かずの池」と室町時代の造園とされる日本庭園があります。

江田館跡

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義貞とともに挙兵、鎌倉では極楽寺坂口攻めの大将として活躍した江田行義の館と伝えられる江田館跡。東西約八十メートル、南北約百メートルの堀と土塁が四方を囲み、東西両側の中央部に折り(屈曲)を持っています。行義は、新田義重の子義季の子孫で、鎌倉攻めの後、備後国に逃れ姓を「守下」に改称。その後、十代後の子孫大善の時(文禄年間)に先祖の地に移り住んだと伝えられています。

重殿水源

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現在、南北三十メートル、東西十メートルの池となっており、周囲は石垣に固められて往時の面影はありません。元亨二年(一三二二)、大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れる用水を巡って争ったことが史料にあり、この「一井郷沼水」が重殿水源と考えられます。荘園経営にとって「湧水」が重要な存在だったことがうかがわれます。

矢太神水源

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今も湧水点で自噴現象が見られ、南には沼が広がる矢太神水源。石田川の源流であり、新田荘の開発の礎となった湧水。周辺には四千年前の縄文時代の遺跡があり、また雨の少ないとき、御輿を沼に入れて「雨乞い」する風習が今も残るなど、深くて古い「水」との関わりを表しています。また、水源にはニホンカワモズクなどの珍しい植物が自生しており、貴重な自然を残す数少ない場所。