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新田一族年代記

新田一族年代記

上野国新田郡一円は、源氏の嫡流新田氏であるとされています。
平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は、関東に下り、その長子義重が「新田の荘」を開き、新田氏の祖となりました。

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1106年
新田義重の祖父源義家死す。

1108年
浅間山噴火、田畑壊滅的な被害受ける。

1150年
源義国が京都で左大臣藤原実能とトラブルを起こした ため勅勘により「足利の別業」に引退させられた。義重 は京都と現地を往復しながら下級官僚の仕事と新田地 方の開発に従事していたらしい。

1154年
鳥羽法皇の御願寺「金剛心院」建立の頃には、 義重を開発地主とする「新田荘」が成立したらしい。地域は新田郡南西部の早川・石田川流 域の下流部で、後に「空閑の郷々」と呼ばれた 十九郷の範囲であろう。

1157年
義重、開発私領を花山院藤原忠雅家へ寄進し、 下司職に補任される。

新田氏系図1170年
この頃、新田荘は旧新田郡全域(現在の太田市南西部を 含む)に拡大する。

1180年
義重、鎌倉に参り、源頼朝陣に加わる。

1193年
頼朝、義重の新田館に遊覧する。

1202年
義重死す。義重の子どもに、山名義範・里見義俊・新 田義兼・徳川(世良田)義季・額(強)戸経義があり、そ の子孫は新田・太田地方の郷村に土着してそれぞれの 地名を名字として発展していった。

1221年
承久の乱。この年、徳川義季、世良田長楽寺を建立。

1241年
新田政義、囚人を逐電させ、過怠料を取られる。

1244年
新田政義、大番役中京都にて許可を得ずして 出家し、所領を没収される。

1272年
世良田頼氏、幕府内紛に巻き込ま れ佐渡に流される。

1300年
この頃、義貞生まれる。

1333年5月8日
義貞、生品神社で旗挙げ。
西進して越後の一族と合流する。

1333年5月11日
小手指原合戦。

1333年5月12日
久米川の合戦。

1333年5月15日
分陪河原の合戦。

1333年5月18日
鎌倉包囲・攻撃開始。

1333年5月22日
北条氏滅亡・鎌倉幕府陥落。義貞、鎌倉に逗留。

1335年11月19日
足利尊氏追討のため東海道を下る。

1335年12月5日
手越河原で足利直義と戦う。

1335年12月11日
箱根竹ノ下で尊氏と戦う。

1336年1月8日
大渡に尊氏ら足利軍を防ぐ。

1336年1月27日
比叡山を下りて京都を襲撃。

1336年3月30日
白旗城を囲む。

1336年5月25日
義貞は和田岬に敗れる、楠木正成湊川に戦死。

1336年5月27日
後醍醐天皇を護衛し、叡山へ。

1336年8月20日
賀茂糺河原方面に戦い破れる。

1336年10月10日
恒良親王を奉じて越前に下る。

1336年10月11日
越前木ノ目峠にて多くの凍死者を出す。

1336年10月13日
敦賀に着き、金ヶ崎城に入る。

1337年3月6日
金ヶ崎城落城、義貞杣山城へ脱出。

1338年2月
越前国府を攻略。

1338年5月2日
黒丸城を囲む。

1338年閏 7月2日
義貞、藤島荘灯明寺畷に戦死。

1342年
義貞の弟義助病死。